住みたくなるような気持ちを持ってもらうことが、一番の復興だと思うんですよね。

浪江町行政区区長会 会長
佐藤秀三さん

2018年07月03日掲載

浪江町で生まれ育ち、権現堂地区で種苗店を経営していた佐藤さん。
震災で得意先を全て他の店へ紹介してしまったため種苗店の再開は難しいが、
2017年3月末の避難指示解除とともに浪江町内の自宅へ戻った。
2万人もの町民が避難のために町を離れるなか、行政区区長会の会長として
町の復興のための活動に奔走。
小中学校の再開もあり、町には少しずつ活気が戻ってきているという。

十分に学習しました

 

──ようやく一部地域の避難指示が解除されましたね。

 

 私は帰ることしか考えたことがなかったので、解除に向けてはすごくエネルギーを燃やしました。町として避難解除を検討する数多くの会議がありましたが、私は行政区長会長として100のうち90は携わっていました。

 

──避難生活の際もいろいろと工夫されたと伺いましたが。

 

 ええ。どこの避難所に行っても、避難者の人たちを7つの班に分けたんです。なぜかというと、物資がいっぱい入ってきていたり、洗濯機が3台ぐらいしかないのに、皆さんバラバラになっていて。掃除もしなくちゃいけないし。それを7班に分けて、きょうは1班が物資を担当して、2班は洗濯、3班はお風呂掃除、4班はホテルの中の掃除をしましょうとか。熊本地震のときもテレビで見てたのですが、どうしても物資のとこにみんなが集まっちゃう。あれってそういうシステムで分けてあげれば、そういうトラブルはなかったんじゃないかなと思うんです。

 

 それと、浪江町の一番心配なことは、当時は仕方なかったんですが、みんながいろいろなところにバラバラに逃げちゃったんですね。放射能のリスクの受けとめ方って、怖い人は沖縄、北海道、海外にだって逃げちゃいますし、無頓着な人はこの近くにいたし。この前も防災訓練をやったんですけど、中継点で行政区ごとに避難者を分けてたんですよね。でも行政区で分けてもみんなバラバラで知らない同士というか、本当に初めて顔を見るような人ばっかりという状態だったんですよ。気まずいです。

 

 思ったんですが、一番いい方法は学校単位で逃がすことじゃないかな。浪江には6つの小学校と3つの中学校があるんですが、その学区単位で避難させる。学区単位ごとに逃がせば、いずれこっちで学校を再開したときにも、子どもが戻ってくれば親も戻ってくるし、じいちゃん、ばあちゃんも戻ってくるんで。それが一番バラバラにしなかった方法だったんじゃないかなと思いますね。今にして思えば。

 

 我々はもう十分学習しました。この前、原発に対する防災訓練を県の主催でやったんですが、それは絶対無駄だと思いますね。我々はもう学習しているんで、より遠くへ、より風上に逃げればいいだけのことなんで。だから自分の判断で、もう勝手に逃げちゃうかもしれないですね。これから柏崎とか、そういうところでは防災訓練はうまくいくかもしれないけど、我々に、まとめて逃がしましょうとか、学校単位で逃がしましょうと今さら言っても、もう絶対に無理だと思いますね。勉強しただけに厄介なグループができたかもしれないです(笑)

とにかくイノシシがすごい

 

罠を仕掛ける佐藤さん

──帰還されてお困りのことは?

 

 戻ってきているのはほとんど高齢者です。原発に対する不安。防犯等の不安。買い物ができない、お医者さんがいないという不便さ。そういうものを覚悟した人だけ戻ってきているんです。

 

 でもここはとにかくイノシシがすごいんですよ。有害鳥獣、アライグマにしろ、ハクビシンにしろ、数がもうハンパじゃないくらい多いんで。これには本当に参りました。

 

 イノシシの嗅覚ってすごいらしくて、家の中にお味噌とかお米があると、スチール製のシャッターとか柵ぐらいだったら、鼻先でぶっ壊して入ってきます(笑)。うちも強化ガラスを鼻で破られました。最近では集会場の周りを荒らされているんで、入らないようにフェンスを巻いてくれるように、町役場にお願いしました。

 

 昨日はアライグマがうちの前の檻にかかっていたんです。塀と塀の間にアライグマがいたりしたこともあります。アライグマが一番どう猛なんですよ。それに感染症が怖いですよね、どんな病気を持っているかわからないので。

 

 今、家屋の解体が進んでいるんですが、留守宅に入り込んでいたアライグマとかハクビシンが、解体されることによってどこか新しい居場所を探すんです。イノシシは、この権現堂の周りに棲み処があって、竹やぶが主なんですけど、家族で住みついていて。町の中に立ち寄る場所があって、そこを定期的にイノシシが大威張りで歩いてる。

風評被害は被災者と報道機関がつくってるような気が

 

佐藤さんは種苗店を営んでいた

──放射能についての不安は?

 

 専門家が来て、いろいろな勉強会をやるんですけど、皆さん難しい説明をする。この前も聞いていたんだけど、おばあちゃんたちにベクレルとシーベルトの違いとか、そういうのを話してくれるんだけど、ちょっとねぇ。みんな、絶対理解してないなと思うんです。

 

 毎日、何人かお客さんが来るんで、いろんな物を持って来てくれるんですけど、この前なんか5年間置いたというコンニャク玉でコンニャクをつくってきてくれました。それでも不検出でしたよ(笑) あとキノコを持ってきて、これはちょっと無理なんじゃないかって、1000か2000(ベクレル)あるのかと思って測ったら、意外と198。

 

 日本はちょっと基準が高い、厳しいんでね。仕方ないかなとは思いますけど。海外では200(ベクレル)ぐらいですよね。福島県の食べ物って一番安全だと思うんですよ。必ず(放射線を)測るんで。リンゴなんて50-60出たらほとんど売らないですし。年間1ミリシーベルトなんて、それはちょっと厳しすぎると思うし。私、海外に1回も行ったことないんですけど、海外に行った人のほうがよっぽど被ばくしてると思いますけどね。

 

 学校を再開するに当たっていろいろな会議を開いたときにも、親御さんたちから「佐藤さん、水は何を飲んでますか」って聞かれて、「おれ、震災の前から、買った水しか飲んでないんで、今でも水を買って飲んでますよ」と。「じゃあ、お風呂の水はどうしてるんですか」って言うから、「町水や水道水、使ってますよ」と。そしたら「それって怖くないですか」って。浪江って町水は全部井戸水なんです。でも10ベクレルは絶対超したことないんで。

 

 こういう風評被害って、我々被災者と報道機関がつくってるような気がするんですよね。いろいろな報道機関がバーっと来て、第一声が、「放射能、怖くないですか?」その不安をあおるような聞き方というか。風評被害にしても、「放射線が飛んでいます、子どもはまだ誰も帰ってません」とかって。必ずその不安をあおるような質問から入るんで、そのほうが記事になるんでね。それに対して、我々被災者の方も「今が一番苦しいです」とか「不安です」とか答えちゃうんで。

「ああ、自分も帰ろうかな」という気持ちになってもらえれば

 

佐藤さんのお店が地域の憩いの場となっている

──このお店に人がいるのがわかると、なんか安心しますよね。ちょっと立ち寄りたくなるというか。

 

 そうですね。見守り隊も必ずここへ寄るし。治安面では震災前より数段いいんですよ。ほかの県警からも応援に来てくれてるんで。一番いい例が……(記録を取り出して)……、これはお巡りさんの警察隊なんですけど、午前2時半に来てくれてるんですよね。この日は2時14分に来てくれてるんですよ。これは2時30分、みんな夜中ですよ。必ず来てくれて、「異常ありませんでしたか」とか、「気温の変化がありますのでお体に気をつけてください」とか、結構まめに歩いてくれるんですね。

 

 あとは防犯面というか、人が住んでいる周りを明るくするという取り組みをしていて。今、街灯をLEDへ交換する事業を進めているんで、人のいるところを重点的に明るくしてもらって。「暗いんですけど」って私に言っていただければ、2日後ぐらいには電気がつくようにしたり。

 

 そうやって帰っている人がいたり、明るくなっているのを見て「ああ、自分も帰ろうかな」という気持ちになってもらえれば。この前、集会所を老人クラブ連合会に貸してくれと言って、中通りからお年寄りが来て泊まっていったんです。こっちにいる人と合同でって言うから、どのぐらい集まるのかと思ったら、50人も来てくれたんですよ。入るスペースがぎりぎりだったんですけど。ほかから来た人が、ここで弁当を食べて、南相馬へ泊まって帰ったとかというのもありますね。

 

 津波とか地震って、必ず復旧しているんですよ。上越地震にしろ、阪神大震災にしろ、そこに人がもともと住んでいるんで。我々、原発事故で住めない状態をつくられちゃったんですよね。一番の復旧って人が住めることなんですよ。人が住めば復旧なんですよ。人の住めるような状態というか、住みたくなるような気持ちを持ってもらうことが一番の復興だと思うんですよね。そんなに急がなくていいよって思うようになりましたね。

photo: 加藤芽久美
text: 山田敬